客をおだててゼニにする

「いくらですか」と勘定を頼んだら、「ありがとうございます」の声とともに、タテ十五ミリ・ヨコ五十ミリほどの小さな紙切れが差しだされる。その紙に合計金額のみが書かれている。バーとかスナックとかいった類の酒場でのことだ。明細書を要求する客は、まず、いない。

海外旅行をしたときに気がつくのは、あちらの人は支払う前にじっくりと明細書を見ていることだ。電卓を取り出して計算している人を見かけることもある。テーブルの担当者になにやら問うている場面に出会うこともある。わが同胞は明細書をちらっと見て支払っている。合計金額だけを見ているのだ。

計算に強い日本人が計算間違いをするはずがない、店が変なことをするはずがない、という一種の信頼感が明細書を見る習慣を日本人から駆逐してしまったのであろうか。そうではないようだ。

ホテルをチェックアウトするときの様子を見ればおもしろいことに気がつく。外国人は支払いの前に明細書に印字された文字をしっかりと見ており、日本人はキャッシャーを離れてから明細書をじっと見ている、ということにである。

明細書を見ることは見るのだ。ただ、店側が、こういう明細なのでこれだけ請求しますよといい、客側が、その場で、間違いありませんよと確認する、という手順が日本においては欠けているのだ。あとで間違いに気がついても、たとえば、見てもいない映画の料金がホテルの明細書に印字されていることに気がついても、文句を言いにフロントデスクに戻る人はいない。

ホテルのチェックアウトでは列ができて時間をとられることが多い。そこで、クイックアウトとかいう名で呼ばれるサービスが提供されていることがある。チェックインのときにクレジットカードを提示していることが利用の条件であるが、必要事項を記入した袋に鍵を入れてフロントデスクの定められたところにほうり込むだけでチェックアウトが済む、というものである。明細書はチェックアウトの日の早朝にドアの下から滑り込ませられている。あるいはテレビ画面に表示させることができる。どちらにしても部屋にいながらにして明細書のチェックができるようになっている。明細書を提示することは店の義務であり、確認することは客の権利であることがよくわかる。

その権利を放棄したところに日本人の美学が存在しているのである。金のことでとやかく言わないことが美徳であって、勘定書なんぞをじっくりと見るのは野暮の骨頂だとされる。「よっ! 粋だね」とか「通だねェ」と言われて悪い気はしないもので、つまりは他人から「粋」と見られたいのだ。勘定書を見もしないで、「ありがとう。じゃ」とツケにして帰って行く。当人はこれを「粋」だと思っているのである。

どうせ見ないんならと思ったのかどうか知らないが、細かく内訳を書いた勘定書をさしだすのは「粋」じゃない、と店側が考えてもおかしくない。

店も客も粋がっているのである。

客にとってみれば高い金を出して遊んでいるという気があって、傍若無人にふるまったり、無理難題をふっかけたりもする。店の方は商売である。客のそういう行動を苦々しく思っても決して表には出さない。むしろ、客の機嫌をうかがう。その「ヨイショ」代も勘定にはいりこむ。まさかヨイショ代とは書けない。テーブルチャージであったり、ホステスのドリンクであったり、ミネラルウォーターであったりするわけだ。しかし、この勘定書も客には見せられない。「あそこの店は楽しかった。高くても仕方がない。また来よう」と思ってもらえばいいのである。

しかし、客の側のそういう心理状態につけこんだ商売は嫌いだ。ましてや、そんなことは粋でもなんでもないんだから。

江戸小咄にこういうのがある。篭かきが客を乗せて走りながら喋っている。さっき乗せた客はたいそう乗りなれた客で、乗りじょうずというか、乗っているのかいないのか、楽にかつげた。おまけに、降りるときには酒手もはずんでくれたし……。それを聞いた乗客は大声でひとりごとを言う。あー、よく眠った。さっき乗った篭はたいそう乗りやすかった。乗り込んだが一向に動かないので声をかけたら、へい、着きました、なんて言ってやがった。おまけに、旦那ぐらい乗りじょうずな客はいない、かつぎやすかった、って篭賃はとらずに酒手をくれた。それを聞いた篭かきは走りながら、グー。

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